河村学科長が東北へボランティア治療に行かれたレポートの 第2回です。

 

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骨組みだけを残す防災センター

19日は、南三陸町に向かった。

最後の最後まで津波の襲来を放送し続けた防災センターは、

赤く錆びた骨組みを残して寂しく建っていた。

当初の津波予報は3mであったと聞くが、 誰一人非難するものはいなかったらしい。

海面に届きそうな橋

ふと気付くと、河口から200m程のところにある主要道路の橋は、地盤沈下によりあと数十センチで橋桁に海水が届く。

堤防もすべてが沈下したとすると、この予報がどのように住民の判断に影響したのだろうか。

切ない思いに捕われた。

そして、この集落の復興は何年かかるのだろうかと沈痛な面持になった。

 

少し高台の福祉センターに着くと、大勢の中高齢者が集まっていた。

窓からは、志津川を挟んで被災者が避難している志津川中学へ続く坂道が見える。

津波が押し寄せた時に、息を切らせながら登って行く避難者の姿を放映したテレビのシーンが蘇った。

 

患者さんは世間話をしながら「アッハッハ」と、一見して朗らかに振る舞っていたが、 治療が始まると悲痛さが伝わってくる。

人々が集まっている時と1人になった時では心持ちが違うのだろう。

 

南三陸さんさん商店街

昼食は、復興の兆しが見える仮設の商店街でとった。被災者が人と触れ合う限られたスペースである。

一瞬だけ被害を忘れられるような活気ある雰囲気の商店街であった。

谷間の奥まった平地であるが、ここにも3m程の津波が押し寄せたようだった。

隣接するビルの2階の窓は無くなっている。

でも、平地で一番安全性が高い土地であることがすぐに分かった。

 

午後は南三陸町の奥座敷のような入谷地区へ移動した。仮設住宅の一室は障害者の支援センターになっている。

ここの患者さんは被災された障害者だった。

午前中の雰囲気とは全く違った。

重症な患者さんの治療は、支援委員の方と相談しながら治療を進めた。

 

20日は仮設の集会場であった。

仙台市の海岸部に居住していた被災者の仮設住宅のようで、 今までとは違う落ち着いた雰囲気がある。

町中で一番の大掛かりな施設であることから、行政サービスやボランティア活動などが行き届いているように思われた。

 

予想に反して午前中は忙しくなかった。

どうやらお彼岸で出かけていた方が多かったようだ。

午後になると、「まだいいですか」と墓参りを終えた方々がやってきた。

前回の訪問が好評のようで、急いで帰宅したと話してくれた。

夕方の飛行機の時間も迫り、撤収作業をして仙台空港へ向かった。

 

お世話になった方、はり灸レンジャーのメンバーと。

何年か前に奥尻島が津波に曝された。

津波は崖の電柱にゴミを引っ掛けて去ったが、その津波は18mと記録されたように記憶している。

今回の津波においても、20mを超えたと聞いた。 おそらく日本国内の海岸線で、津波を心配しなくても良い土地はあるまい。

そう考えると20mの高さを保持する平坦な土地はあるのだろうか・・・。

魚釣りが好きな自分は、老いたならば海岸に近い所に住みたいと思っていたが、その考えは揺らいでいる。

 

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いかがでしたでしょうか?

レポートを読むにつけ、被災地の状況を思い胸が一杯になります。

一日も早い復興をお祈りすると共に、 今後も学院として支援できることは協力していきたいと思います。

 

当校の卒業生が中心にメンバーを組んでいる「はり灸レンジャー」の 活動の様子は、こちらのブログからご覧いただけます。↓↓

「はり灸レンジャー ~鍼灸震災ボランティア~」

鍼灸治療とセルフケアの提案により、被災者とその支援者の心身の苦痛を取り除き、 関連機関と

連携した継続的な支援を目指すボランティアグループの活動日誌です。

 

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